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18/12/27 D.H.D.D.H.(デュシャンの話ではないデュシャン展の話)


12月のはじめ、東博で特別展をみて、その日に書いたノートからなのですが、
久しぶりに読み返したら、思ったよりヒネたことを書いていて、今ちょっと頭をひねっています。


東博でデュシャン展をみた。
宗達の龍の絵がよかった。

などと書くと、文脈が全くつながっていないけれども、実際のところなのです。
そもそもが何故東博でデュシャンなのかというと、デュシャンのやっていたことと日本美術のやっていたことを関連づけるというのが今回の展覧会のテーマだったからなのでして、私はそのことをテレビでY田G郎さんが話していたから知ったのだけど。

デュシャンの考えたことや実際したことやなんかは、改めておもしろいし、凄いし、言葉の感覚なんかも含めてひっくるめてめちゃくちゃ頭のいい人だなあと感服した。
これを日本美術と関連づけるというねらいは、刺激的だし、おもしろい試みであると思う。そもそも東博にデュシャンをもってくることが、おっ、と思う。

でも、デュシャンの作品の合間に、日本美術をねじ込んで関連づける、という構成でもよかったのではないかしらん。と思わないこともなかったのだった。
展示のつくりは、最初から3/4くらいまでずっとデュシャンで、日本美術は一番最後の部屋ひとつにまとめてあった。
流れとしては自然で切り替えもしやすく、見やすいのだろうけど、日本美術の、それぞれの作品がどうデュシャンと関わるのか、振り返ってまた説明しなければならないし、どうしても体感に時差がでてしまう。
まあ実際、交えて展示をしようとすると、展示方法とか作品保管の条件とか、いろいろ制約もあるんだろうし、厳しいのかもしれないけど。

日本の古美術と、デュシャンのモダンアートと、こんなところが同じですよ!しかも日本の方が早いんですよ!
わかる。わかった。それはもうわかった。
日本美術のこういうところがすごいんですよ!というのを、他者と比較して説明し実感させることは、理論的にも、価値づけとしても、興味ない人たちのとっかかりとしても、重要なんだろう。事実、わたしもそういう文脈に胸躍ることもある。

しかしまあ、日本美術は日本美術であって、他者との背比べはおいといて、
日本の絵って、いいよね、うん、いいね、みたいな気分でみられる穏やかさもいいよなあ、というのは、ちょっと私が呑気すぎるんでしょうか。
そもそもが日本美術にしろ、西洋美術にしろ、モダンアートにしろ古代の美術にしろ明治以後の日本画にしろ、そんな話は縄文のシンポジウムでもありましたけど、他者との比較がまったくできないわけではないけど、みな文脈がそれぞれちがう。

とりあえずわたしは、最後の展示室にあった宗達の龍図をみて、「ああ、いいなあ」と思い、そんなことを考えた。
もう、この「ああ、いいなあ」で、わたしは満足してしまったのだろう。
しかし「ああ、いいなあ」というテンションでつくる展覧会というのはあまりに大人しすぎて、振り向いてもらえなかったり、喜んでもらえなかったりするのかしらん。わかる時が来ないとわからないって日本美術応援団でも言われてたものなあ。


同じ日に快慶定慶もみて、こちらは普段どおりに仏像のみごたえを楽しんだ。
撮影可の聖観音の前で、一緒に自撮りをしている人が二人くらいいて、その様子を向かいの地蔵菩薩が静かに眺めているのが、やけに意味深に思われたのだった。
それから常設にでていた、久隅守景の鷹狩図の屏風がよかった。このひとはやっぱり俗っぽさとか、普段の生活やふつうの人々のたのしみやくらしの実感を描くのがうまくて、うれしかった。


見事にデュシャンの話じゃなくなっている。
でも、デュシャンにしろ日本美術にしろ、コンセプチュアルなおもしろさを否定するものでは決してないです。ヒネたこと書いて、言い訳がましいかもしれませんが。

年内をこの文章で〆るのは不安だな。最後のつもりだったけど。困ったな…
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