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18/7/4 感じなくなりたくない話


7月がきてしまった。ほぼ月一更新ブログですみません。
橋口五葉の話を書こうと思っていたんですが、ちがう話です。


突然ですが、都会では脳を麻痺させなければ生きられないとおもっている。
万人に当てはまるわけではなくて、都会のほうが生き生きとしていられるひとも居るけれど、自分がそれになることはとうに諦め、なるべく鈍感に、物事を深く感じすぎぬようにして生きている、という自覚がある。その場しのぎの方法でしかないから、遠からずなんとかせねばとは思うのだけど、このさき永く生き延びられる方法が、いま近くには見つかりそうにない。

たまに麻酔が切れる。駅や街の人混みが、喧騒が、あらゆるきらきらしたものが重くのしかかってくる。
フィリップ・ワイズベッカー展をCLASKAにみに行ったときが、はからずもそういう日であった。正直こういう日は絵をみるのには向かない。ひとりで歩いているとそれだけで重々しい心持ちになるので絵に集中できない。そういう心持ちでみることになってしまう絵に対して、とてもとても申し訳ない気持ちになってますます悲しい。
駅にびびり、街並みにびびり、重苦しいことで脳をいっぱいにしながら辿りついたCLASKAに一番びびった。すごくきらきらしたところである。でもここで引き返したら何をしに出てきたのかわからぬから入った。

CLASKAのギャラリーは想像以上に広くて、白いきれいな空間で、お洒落なショップもあった。そのなかにワイズベッカーさんの絵が、ぽんぽんぽんと浮かんでいた。しかし頭がまだ重いわたしには、その浮かんだ形と線が、すごく遠くに思える。しばらくその状態がつづいた。

すこし変わったのは小さなチョコレートの絵の前だった。ふしぎなかたちの小さな絵が、ぽつんぽつんと並んでいた。おや、と思ってキャプションを覗くと、CHOCORATEという文字がある。そうして改めてみると確かに、四角い箱の四角い仕切りの中にぽつんぽつんとひとつずつ入っている、あのチョコレートの形なのである。
そのぽつんぽつんと入ったひとつひとつの形へのいとおしさが、ふと近しく感ぜられた。小さきものはみなうつくし、と思った。清少納言。

それから飛行機の絵の前に立っていたとき、ふと、手の上を小さな蜘蛛が歩いているのに気がついた。
いつから私の身にくっついていたのか、家の近くでバスに乗る前か、そのあと電車に乗る前か、はたまた駅からギャラリーへ歩く道中か、実はギャラリーにずっといたのか。それはわからないけれど、少なくともある程度の距離をわたしが運んでしまったことは確かであり、この小さきものはそれに抗うことができない。人間が歩いて運んでしまうこともあれば、電車や車、もしかしたら飛行機に乗ってしまうことだってあるだろう。そうして勝手に、時に不自然な方法で遠くまで運んでしまうことに対して、その先で起こることに対して、人間は責任をもてない。責任をもてないまま、自動車に乗り、電車に乗り、飛行機に乗る世の中で生きている。まったく不自然だけども戻ることもできないものなあ、などと思いながら、空調の効いた室内に蜘蛛を放した。

置かれていた画集をぱらぱらとみていると、ワイズベッカーさんの絵の心地よいフォルム、線、かたちへのいとおしさが、少しずつじわじわと、重い頭に沁みこんできた。しばらくして見ると蜘蛛はいなくなっていた。あいつらは結構すばしこくて、人間が思っているよりずっとタフでしたたかなんだ、たぶん。

久しぶりに、ものすごくゆっくり、じっくりと展覧会をみた。自分のからだで吸収し、咀嚼し、味がわかるまでみた。
絵をみる機会が少なかった頃は、いつもそうやってみていたのに、何かと機会が増えると義務感とか、みたという事実のためにみにゆくとか、そういう風になってしまうことが、認めたくはないけれども有ったのだ。殊に出がけに麻酔が切れ、頭と身体が重くなれば尚更のことで、それこそ絵に対して甚だ無礼なことである。不誠実。

道具のかたち、乗り物のかたち、建物のかたち、かたどる線の一本一本、色鉛筆で塗るタッチ、無機質なようでいて宿るぬくもり、少しずつ、ひとつひとつ、心地よさを感じることができた。
そしてギャラリーに入ったときは、正直このまま帰ろうとすら思う状態であったが、ちょっと元気が出て、ワイズベッカー展をみたあとも、少し各所をまわることができた。

それは麻酔を打ちなおしたのではなく、何か別のものを、注射とか、点滴とか、して貰ったような感覚であったと思う。栄養なのか、薬なのか、身体に必要な成分なのか、最近のわたしにはそれが不足していたのか。
それがワイズベッカー展でなければ得られなかったのかはわからないのだけど、ワイズベッカー展でよかったんじゃないかなあ、とも思う。
もしかしたらより大事であったのは、じっくりと吸収し、咀嚼し、味をしっかり感じながら絵をみるという、経験そのものであったのかもしれない。もしかしたら薬でもなんでもなくて、ただ普通に味わってごはんを食べたというくらいのことであったのかもしれない。でもそんな普通で、あたりまえのことでも、時として人は感じなくなってしまうのだろうか。

感じなくなりたくないなあ、と思いながら、自戒のように書き留めておきます。
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