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18/03/16 雪岱をみた話

不安定な春が着々迫っていますね。
久しぶりに展覧会の話をします。


ぎりぎり行けました。川越市立美術館の小村雪岱。
最終日前日のわりには、ゴタゴタに混んでて見づらい!ってほどでもなかったので安心した。
初っぱな、チケット売り場でチケット買ったら格好良すぎて爆発した。私の中で何かが。

実は雪岱(一発変換できねえ…嘘だろ…)を、まとめてたくさんみるのは今回が初めてでした。
まあ日本画とか日本のむかしの絵に関してもここ数年の初心者で、最初は江戸ばっか追っかけてて、ようやく清方あたりまで触手がのびたのもごく最近ですから…

たしかに彼は彼にしかない魅力を、日本がながくながく積み重ねてきたその道にありながら確かにあたらしいものを、日本の装釘(意匠)と挿絵と日本画との世界にあって、揺るぎなく輝かせているひとである。そういう印象である。私はね。
それがもしかしたら私に深く踏み込むことをためらわせていたのではないかと、今にして思うのだけど、まあその話は後でしますね。


最初に「おせん」の複製版画。そして若い頃の絵を少し(丁度いい量)。
それから鏡花をはじめとする装釘本、さらに挿絵や雑誌の仕事を、代表作を主として並べ、最後に肉筆の日本画。かな。流れとしては。

当時の装釘はほんとに、展覧会のキャプションに倣って今回はこの字を使いますけど、
美しくてドラマチック。あの表紙をひらいたら見返しに、あんな綺麗な絵が、色が、世界が広がっていたら本当身体中の毛穴が開きまくってうっとりするよな。その表紙は、手元に置いて安心する穏やかさ、可愛らしさで。
外側は穏やか、シックさもありながら、中は熱気、情熱、ロマンに満ちている。本とはそういうものかしら。
印刷の色もほんとに綺麗だ…技術の問題とはいえ、一冊一冊の本を木版で作るなんて今じゃ考えらんないがゆえ、あのとうとさ。
あの時代は、あんな美しい本が手に入って、雑誌には木版や石版の口絵がいちまいいちまい入ってたりして。夢か。夢の国か。
清方の口絵やら五葉の装釘やらもみるたび夢の国かとおもう。

表紙をめくると、ひろがりのある風景がえがかれている本が多いと感じた。
本の中の世界に、誘い込んでくれるのかもしれない。ブルーが綺麗。


んで挿絵ですよ。やっぱり今回も一番ばしばし叩かれたのはこれ。もう集団リンチ。
雪岱の挿絵の原画や下絵が、ずらりとまとめて私にもみられるなんて、いい時代だ。

いわゆる「雪岱調」より前のもの、後のもの、「おせん」「お伝」以降がすべて同じ雰囲気かというとそうでもなかったりして、
でもそれでいいと思うんですよ、それだからいいと思うんですよ人間なんだから。
墨の線の「描いている」実感、塗りの実感、ほんのわずかの揺らぎに雪岱の人間を感じる。
しかしその線の繊細さ、美しさ、流麗さはせつないほどで、みていて胸がしめつけられるような気すらする。原画ならなおさら。この線を人間が描く、そのうつくしさ。

白と黒のこと。今回キャプションでは「雪岱調」のイメージに「白黒二階調」がわりと強調されている感じがした。
それだけではないと思うけど、かたちの捉え方とか、視点とか、間とかいろいろありますし。
でもたしかにその白黒二階調の心地よさといったら。チケットの図版に爆発してしまった一因もここにある。
下絵があると、下絵の線からどう白黒に構成していっているのか、下絵の段階でどこを描きどこを描いていないのか、その課程も垣間見えておもしろい。
「おせん」はほとんどの原画が失われてしまったらしく、ほぼ下絵の展示だった。しかしあの肢体のなまめかしい格好良さよ。
「お伝地獄」でも、座って男と酒を酌み交わしているお伝の挿絵の前で、しばらく動かなかった。
細い腕が、足が、指が、まっしろな紙の中でほっそりとからむうつくしさ。
挿絵の大きくはない画面の中で、何が起きているのか、どういう感情なのか。その想像力、緊張感がしずかに張りつめている。


「おせん」の表情をみていて、先日あったお雛様の話を思い出した。
実家にて母が、お雛様を出そうか迷ったけれど仕舞いっぱなしはやはりかわいそうだから飾ると言う。
それで私は突然気がつき、「昔はお雛様をみているより高砂の人形をみているほうがおもしろかった」と言ったら母に笑われてしまった。
うちにある高砂の人形はケースに入ったリアルなやつで、あまり可愛いものではないが、
それでも子ども心にはあのにこやかな表情や、しわの寄った顔や、箒や熊手をもつ手と指のうごき、箒や熊手というモチーフのそもそもの身近さが愉しかったのである。
馴染みのない綺麗な着物を幾重にも着て、まっしろな顔で、何考えてるかわかんないお雛様よりも。
ちなみに実家のお雛様は、お内裏様とお雛様だけで三人官女もいなければ赤いお顔の右大臣もいない。そのへんも一因かもしれない。赤いお顔の右大臣が居たら赤いお顔の右大臣のほうが好きだったかもしれない。

今では私もお雛様の良さがわかるようになった。
何を考えているかわからない、つめたい表情のおせんの良さもわかるようになった。
しかし私は未だに高砂の人形を好きである自分を忘れることもできない。
そこんとこが自分を雪岱に踏み込ませることへのためらいをつくっていたのかもしれない。などと思った。どちらが良い悪いという話でなしに、各々の好みや親しみの問題だと思います。


肉筆も綺麗だった。見立寒山拾得がすきであった。どの絵を見ても筆の線の美しさ、質感に惚れぼれしてしまう。
美術館そのものが久しぶりであった。このところ内にこもり気味の生活と心持ちであったのだけど、絵の前に立ったらやはり、ちゃんと全身を動かして己の身をもって吸収しなければ駄目であると、痛感した。
うちにあるものだけ、ちっぽけな画面のなかだけみるのをくり返して、わかったような気になるのはほんとうに危ない。自戒自戒。


私は半人前にすらならぬ人間であるけれども、挿絵の仕事をいただくたびに、挿絵の仕事がほんとうにすきだと思う。
殊にここ数日間で、いろいろあってむかしを顧みて、ほんとうにすきだと思う。
だからもちろん挿絵をみるのもすきで、たとえ刺激の強さに集団リンチを喰らってもたのしくて、眼のひらく思いがする。
なんか脳に謎の物質が分泌されている気がするんですよね。
みるほうにしろ、描くほうにしろ、積極的に脳に謎の物質を分泌させていきたいと思います。
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