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16/12/14


以前、「禅展にいったらブログに書きます」と発言していますので、
行ってますので、書かないわけにいきませんので、書きます。


さて、何から書けばいいんだ。とりあえず4時間かかった。
始祖の達磨や臨済について→十五山と各派について→武将との関わり→白隠と僊厓(仙厓でなくこう表記されていた)→仏像、茶、書画、こんな感じかな大体。流れとしては。
主なめあてにしていた絵、屏風や掛軸は最後の最後の方でしたが、そこまでの流れも楽しめました。とにかくボリューミー。まあそれは禅そのものがそれだけボリューミーだということなんだろう。

展示室入ってすぐは、白隠の大きい達磨、昔は門外不出って言われていたけど今けっこう出てくるようになりましたね。
なぜかもっと大きいと思ってましたよ。あれ?もちろん迫力は充分。ずれまくりの下描きの線を目で追う悪いおとな。

そこから入るともう人がすごいので、とりあえず展示室をぐるっと見渡したら、雪舟の慧可断臂図があったので脇目も振らず直行しました。たぶん係員さんに怪しまれたと思います。
実物をみるのは初めてだったけど驚いたのは、達磨が近い。
これはつまり何を言いたいかというと岩窟の奥にいるはずなのでもっと奥まって見えるはずの達磨が、全然奥にいるように見えないわけです。
その白い衣をまとった背中が、顔が、身体中がぐいと前に出てくる。慧可も同じくらい近い。言ってしまえば周りの岩も同じくらい近い。全部前に、ぐいぐいと出てくる。奥行きとは。
今回の展覧会でよかったことはガラスと絵が近いものが多かったことです。達磨のギョロ目から慧可の髭のポツポツまで、間近でみられました。
こんな風にぐぐぐと前に出てきたから赤瀬川さんは捕まっちゃったのかなあ。(日本美術応援団の話)

始祖のひと、十五山それぞれの開山のひと、ゆかりの人の、肖像画、像がたくさん。
肖像画(頂相かな)は、顔に集中したリアリティーで、服や背景は形式的、平面的。この顔のリアルさへの執着はどこが発端だろうと思ったらたぶん中国の頂相ですね。日本はそれに倣っている。
そういえば用語解説やものの名前解説が多くて、知識のない私には有難かったんですが、その中に竹箆(しっぺい)がありました。叩く棒。
これか!これのことだったのかしっぺ!!小学生の時分からの謎が解けた。

白隠と仙厓、どちらもわりと最近みたばかり(大仙厓展にも行っていたので)。
メモに「博物館の中て無臭」と書いてあるのは、おそらく白隠をみたときのことだ。
龍雲寺の展覧会で白隠をみたときは寺のにおい、畳のにおい、紙のにおいや掛軸のにおいその他もろもろがしていて、それに比べるとガラスケースの中の白隠は、やけにプレーンに感じた。龍雲寺でにおいを感じていたことすらこのときに気付いた。やっぱり行っといてよかった…。
仙厓の円相はするっとしているが、白隠の円相は力がこもって、ぎゅるるるるという感じ(個人の見解です)。

仏像は慶派の十大弟子がすごく良かった。慶派はやはり血がかよっている感じ、体のひねりやポーズのエネルギッシュさ、バリエーションも豊か。
吉山明兆の絵がけっこう多い。この人の達磨と蝦蟇と鉄拐の三幅対はデカくてストレートな強さで凄かった。日本の自画像の最古を遡るとこの人や雪村に辿りつくんだそうな。まあでも禅僧だから今で言う意味の自画像というより頂相だよな。
雪村といえば呂洞賓図、意外と小さくてびっくりした。白隠といい私は何をそんなにビッグサイズ期待しているんだ。あのポーズ一度見ると忘れられない。
みたときに強い刺激を感ぜずとも、一度みると忘れられない絵というのはやはり強いと思う。

最後の最後に大きい屏風や障壁画がどんどんと並んで、めあてにしていた等伯はここにあった。竹林猿猴図。これをみるために後期に行ったのだもの。
アグレッシブ等伯の壮年期だからさぞ掻き乱してくれることと思いきや、猿の親子は愛らしくとくに子どもの笑顔がなんとも可愛く微笑ましいけれど、どうも樹の描写に元気がない。竹もなんだか覇気がない。
いつもならもっと手にぐっと力があるような荒さの線なのに、なんだか手に力が入らないような描き方だ。えっどうしたの。もっとアグレッシブに乱してくれるはずだのに、あなたそんなもんじゃないでしょう。確かに等伯の人生を考えるに、親子の情というのは涙無しで語れないところがあって、だからこそ私は竹林猿猴図をみたかったんだけれど、にしても落ち込んでいるような人生に疲れたような、ちょっと戸惑ってしまった。

対して天授庵の絵は、墨色のバリエーションには乏しいけれど、樹木や岩の描写にはしっかりと手に力が入っている。そうそうこの感じ。
天授庵てもっと若い頃の絵かと思ってたらわりと晩年なのね。このシリーズは人物の目元になぜか独特の、ここにしかみられない謎の色気があって不思議である。去年七尾でみたときからそう思っているし画集でほかの図版を見てもそう思ったし、本当にこの絵以外でこんな目描いてないんだ。何があったんだろうなあ。
それから狩野派、大雅、若冲なんかもみられて、大雅の描くかたちには何故どうもつかみどころがないのかを、隙だらけのふわふわの線に見いだす。
ちなみに大急ぎでかいつまんでみた常設にも等伯の屏風が出ていて、こちらの山水図は派手ではなかったけれど、樹や葉の描写などに、心地よさを感じた。

禅の周辺の、円相の線の部分をぐるっとまわってみた感じかなあ。
もっと精神の部分、円相の真ん中の白いところも覗いてみたいが、それは自分で覗こうとしなければなかなかお目にかかれそうにない。ミュージアムショップで鈴木大拙氏の著書を買ってきた。まだ読んでないけど。


と、ここまでノートに書いたのがずいぶん前のことで、
その後いろいろあって、少し悲しい気持ちの時に絵を描きましたら、思いがけず手つきが荒々しくなりまして、
そこでふと、元気の無かった等伯の絵のことを思い出し、
私は等伯のアグレッシブな絵は、野心とエネルギーによるものであって、手に力の無い絵は人生に疲れているのだとそのままに受け取っていたけれども、
もしかして等伯自身に元気が無いのは、力の無い絵のときではなく、荒々しい絵を描いているときなのかもしれないと、思ったのでありました。
後日談で〆。
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