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16/08/02


更新してなさすぎたので更新しますが、しばらくはグループ展の告知が一番上にくるようにしておきますね。
展示終わった頃に時系列に素直になります。
(8/5追記:時系列直しました。)


行ったのはけっこう前なんですが、出光美術館の「美の祝典」2章と3章の話をします。
ちなみに1章は行きそこねました。後悔してます。

2章は「水墨の壮美」。水墨というくくりですが、牧谿や玉澗から能阿弥、等伯への流れと、江戸時代の文人画と、まあだいたいふたつに分かれますかね。
文人画は大雅や蕪村がでていて、こちらも大雅の仙境は別の星みたいで(時代考えると中国の仙境だって滅多に行けたもんじゃないし、感覚的には別の星みたいな思いなのかなあ)おもしろかったですが、今回は特にビビッとくるのは前者が多かったです。
それも少し前だったら、例えば七尾で等伯をみる前とかだったらビビッときてないかもしれなくて、人生はおもしろいですね。

やはり南宋、そしてそこから桃山くらいの彼らには、墨の「技」を感じるんですね。
花が咲き鳥が舞う、これは能阿弥の花鳥図の屏風の話ですが、そのしずかな味わいを出すために、にじみやぼかしや縁どり、巧みにあやつっている。
やっぱり「技」ってのがあるんですよ。絵の腕があるんです。図書館で水墨画の描き方についての本を借りてみたら、何かにつけ精神性だとかその類いの言葉ですますので閉口しましたけど、ちゃんと技があるんじゃないか、技術で何が悪いのか。いやそんな文句はいい。能阿弥も等伯も牧谿もみんなうまいなあー。
あっでも補足すると抽象画をみると絵は技術じゃないって思うの。まど・みちおさんの画集をみてて思ったの。あとモランディをみたときも。矛盾に思えるけども。ちょっとこのへんの感覚の詳細は整理しておくのでもうちょっとまってください。

閑話休題、南宋の水墨ではたらしこみが本当に立体感のために使われていて驚きました。
以前琳派についての本を読んだときに、たらしこみは本来立体感を表すための技術、と書いてあって、また読んでるのが琳派の本だし自分の知識も少ないから、芳中とか宗達とか想像して「ウッソだー」とか思ってたんですけど(失礼)、
このとき出ていた水墨の牛の絵をみたら本当にたらしこみで立体感描いてた。マジだった。
ってことはよ、琳派の装飾のためのたらしこみはめぐりめぐって本来の目的を逸脱してしまったということなのだ。何やってんだ芳中。かわいいからいいけど!

牧谿の「描かない」「描くところしか描かない」本当に潔いやり方も、玉澗の撥墨の大胆と計算の合わせ技も、巧みさにうなるし、それでいて吸い込む空気感をちゃんと作っているからすごい。
等伯は相変わらず遠目でみて空気を味わったのち、近くに寄って行ってメタメタに掻き乱される。すごい攻撃力。アグレッシブ等伯。
ちょうど「これみたことないなあ」と思っていた鷺と烏の絵が出ていてうれしかったです。カラスの巣がアグレッシブポイントです。

以上と文人画エリアとの間に伴大納言絵巻の公開がありました。
これがまたでかでかとパネルを作ってストーリー解説とか載せているんですけど(わかりやすくてよかったです)、作品のみごたえも負けず劣らずよかったなあ。
人の表情が本当に生き生きしている。顔から体から指の先まで、名もないひとりひとりまでが。そしてそのひとりひとりの並びのリズム、群衆だったりたくさんの人が集まっているシーンのリズムの作り方が本当にうまいんですよ。ひとりひとりのポーズや体の向きでとてもリズミカル、みてて飽きない。
前にネットで山下さんが「暁斎は今だったら漫画家になったと思う」って言ってたのを読んだけど、この絵巻を描いた人も今だったら漫画家になるんじゃないかな。デフォルメしつつ形式化しないリアリティー。
これは全巻みられたなら全巻みたかったからやっぱり1章に行けなかったのが悔やまれた…。

書いてて思い出したけど途中に、また作者不詳でちょっと描写が時代先取りみたいなやつ、あった。ああいうのだいたい作者不詳だよね。これだけ描けても名前残んないんだから世知辛いよね。
坊さんが水を割った海を渡るモーセみたいなシチュエーションの絵なんですけど、人物の描写に妙に現代風なリアリティーがあった。斜め向きの人の肩の奥行きが描けてるんですよ。(そのわりに車輪のパースは狂ってた気がするけど…)走るポーズも緊張感があった。今みたいに絵の多様性がそれほど認められる時代でもないだろうから、こういう一風変わりようだと認められなかったりするんだろうか。受け入れる器がまだないかもしれないなあ。


で、唐突に3章「江戸絵画の華やぎ」の話に移ります。伴大納言絵巻下巻もやはり期待を裏切らない面白さでありました。
風俗画(浮世絵)と、琳派という構成。簡単に言うと。
洛中洛外図とその類いはいつもみようみようとして目がチカチカします。肉筆浮世絵も、歌麿の立ち姿の美人画がすっとして色っぽかったなあ。

風俗画だといちばん惹かれたのは英一蝶の日待絵巻だったかなあ。日待という行事は、日の出るのを待つ神事だったのがめぐりめぐってただ朝までわいわいする会に転じてしまったのだそうな。
一蝶の狩野派からきている品のよさと、市井の人々に向けるまなざしとが融合して、きれいかつ楽しい、親しみやすい絵でした。障子の影で踊ってる絵はよくありますねえ。

琳派は抱一をたくさんみられてよかった。
抱一ってどうしても宗達や光琳と比べると固くて退屈に思えてしまうけども、改めてみれば真面目で、真面目ゆえにていねいで美しい絵だ。光琳らしい「ぽってり感」も、少しだけど受け継いでいる。十二ヶ月の花鳥図と紅白梅図がよかったなあ。風神雷神図はどうしてもね、やっぱりクスッてしちゃいます。いや抱一は大真面目なんだよねごめん。でもなにか、やっぱりちょっと抜けちゃってるんだな。

その抱一はよくて、宗達も光悦とのコラボのやつがでててこれもすてきだったんだけど、光琳に一瞬腹が立つ事例が発生。
乾山の陶器のための下絵が出てたんだけど、サラサラッと花鳥とか布袋とか描いてるだけなんだけど、すごいヘロヘロなゆるゆるな線とかたちで、以前だったら「ゆるいわー」くらいで終わってたと思うんだけど、いろいろを経て光琳のぽってりな正体が見えてしまった後だからか、彼ってぼんぼんじゃないですか、小さい頃からいろいろ良いものをこれでもかと見てふれて育ってその育ちによるセンス、とすると光琳って「これくらいなら描けちゃう」人なんじゃないか、そして本人もそれを自覚していてそれでいて実力者に近づいて法橋にまでなって、とこのへんまで考えたら俄に目の前のへろへろの線に腹が立ってきて、この、このぼんちめ!!と一瞬思ったけれどもそれでも今までみてきた光琳の作品を思い返せば、彼のセンスは確実なのだから別に腹を立てたってしようがないのである。ていうかただのひがみかこれは。
でも先日テレビで光琳の絵を見たときも一瞬こんな気持ちになりかけた。絵くらい描けちゃうぼんぼん、完全に光琳に喧嘩売ってますね。私とは真逆で、デザインのセンスが都会的でオシャレでキレキレだから、今だったらこの人はデザイナーになるかなあ。


失敬しました。こんなに好き放題しゃべって光琳がたたるんじゃないだろうか。
ちなみに出光では秋に大仙厓展を開催するそうです。仙厓さんにも大がつくようになったと思うと感慨深いですね。
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