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16/05/26


感想ノートよりかいつまみ。

ことの起こりは2年前かそこらの、古径と土牛展、
そのときに古径はよかったんだけど土牛の晩年あたりになって、どうにも胸焼けを禁じ得ない感覚になったのを覚えていて、
それ以来土牛にはそういうイメージがついてしまった。そして山種にも行くたびに最後の方で胸焼けがしてしまう。
とはいえ彼の良さ、つまり多くの人が彼のどこに魅力を感じるのかがまったくわからないというわけでは、ないと思っていて、
彼の岩絵具ののせ方、質感や厚みには独特さを感じるし、描写もうまいと思うし、桜の樹も渦潮もなかなか描けるもんじゃない荘重さがある。だからひとえに相性の問題なのだ。

それで先日の土牛展に行ってみたら、やっぱり土牛の全部の作品に胸焼けを感じるわけでは決してなくて、
若い頃の絵とか、花や動物もやさしくて、今回晩年のものでも1点すなおにみられたのがあった。(つまり私が穿っているのか)
それが吉野山の、桜が咲いて春霞のもやの中に山が連なっている絵で、それはみていて、すーっと絵の中に入っていける感覚があった。
そこでふと思い出したのは、以前東博で大観の屏風をみたときのことである。

私は屏風といえば包まれたい、浴びたいと思ってど真ん中に立つのが常なのだが、
そのときの大観の絵は、確かに描写はきまっていてすばらしいのだけど、どうにも私を絵の中に入れてくれないのである。
(以前のノートを見ると、「隙をみせてくれない」と書いてある)
こちらが包まれたいと思っても、入れてくれないのではどうしようもなく、かといって私は鍵を持っているわけじゃないし、でもきっと鍵をもっている人は大観は迎えてくれるのだろうと思うと、あ、振られたなと思う。

それを思い出して土牛展の絵を見渡してみると、確かに私はあまり吸い込まれなかった。土牛もすすんで吸い込んではこなかった。
顔料の厚みは堅牢な壁になっていて、もちろんそれは私にとってだけそうで、
私の吸い込まれ方ではそこを通り抜けることができない。
でもきっと鍵をもっている人や、抜け道を知っている人や、はたまた体のかたちを変えて通り抜けられる人というのがいて、
私は相性の問題かあるいは不勉強かで、そこに辿り着いていないのだ。
また振られた。と思う。

そもそもが私の、日本の絵に求めるところが「吸い込んでもらうこと」であるのが一因なのかもしれない。
屏風や掛軸に包まれたり、絵巻や浮世絵の中を遊んだりする日本の美術が確かにあって、そこに時代の流れもあってそうじゃない日本画が存在する。
相手に求めるところが合わなければ振られるのは必定で、それでも私も少しは土牛のことをわかりたいとも思うので、それにはおそらく求めるところを変えればよいのでしょうね。

とはいえ土牛展をみに行かなければ、自分にとって土牛は「なんか胸焼けしちゃった人」で終わっていたから、
今回土牛の独自性や、やさしいまなざしや、自分が日本の絵をみるときの目線について、考えをめぐらせることができたのは、とてもよかった。


それでそのあと府中市美術館に行った。春の江戸絵画まつり。
どうも江戸絵画がっつりみる機会が少なかったようで、久しぶりに、さんざん吸い込まれて感激した。
自分が、「そうだこれだ」と思うようなものを、これでもかと吸収することって、いや吸い込まれるのはむしろ私なのだが、
とても大事なのだと、このときに思った。

私ははまり始めのときに、だれかひとりの作家というよりは、江戸絵画という広々としたキーワードで展覧会を追っかけていたので、
どうもそういう展覧会が原点というか、初心みたいです。
有名な大御所でも、全然知らない人でも、もはや絵師の名前すら消え去っていても、
その時代の絵の魅力を、ずらっと並べてくれるのがうれしいです。

墨のにじみで浮かび上がる月も、夢の国のような四季草花図も、左隻から右隻へぽーんと伸びた金色の橋も、墨から浮かびあがってくるような龍も虎も、
なんか具体的に何がよかったとか、うまく掴めなくてもどかしいけど、
絵の中かその向こうか、どこかへ吸い込んでほいっと連れて行ってくれるようで、ほいほい吸い込まれて、覗いたり寝転んだり遊んだり、ときどき怒られたりして帰ってくるような、気がするんだけど、
実際の私は絵の前に突っ立ってぼーっとしている。ぼーっとしてるんだけどとても濃い。

自分が墨いじりするようになってなおさら、みんな墨がうまいので驚く。
蕭白だって墨だけであんなリアルな樹を描いてるし(にしてもそれでいて人の唇だけ真っ赤なのは狂気を感じるけど)、
蘆雪の月だって均等なぼんやりだけどあれって相当むずかしいはずだ。
蘆雪は蓬萊山の絵が目玉で出ていて、木といい亀といい鶴といい、筆がすごく速そうだった。いつもわりと速そうだけど。
あの構図をスピーディーに一発でいくような、小憎たらしい画力で決めちゃう奴なんだろうか、たぶんそうなんだろうな。

ふっと立ち止まる絵に応挙が多かった。
水墨画が何点か出ていて、これ署名応挙っぽいけどまさかね、と思ったら応挙ということが数回。
たださらっと朝顔描いてるとか雲描いてるとか、それだけでやけに私を吸い込もうとするような、そんな絵を描いて、これ以上惚れさせないでほしい。
応挙はこのところ、勝手に親近感を抱いている絵師で、それは生まれとか性格とか絵の性質とかの話で、腕じゃあ足下どころか地の底にも及ぶはずないのに、何かにつけ私の前に立ちはだかる。
でも閻魔様の絵はちょっと肩に力入りすぎかな。そういう絵もたまにある人だから人間くさい。

そういうことがあると、わかりやすく何かにつけ応挙と円山派のことを気にしている昨今ですが、
とりあえず府中市美術館新グッズの応挙犬グッズはたいへんかわいいので、気になる方はぜひチェックしてください。
私はクリアファイル買いました。かわいいです。


まだ展覧会のノートあるのですが、ひとまずここまでで〆。また。
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