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16/04/21

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このところで思ったことなど。

モランディ展をみて、絵は技術ではないということを、今更ながら思い知らされた。あたりまえなんだけど。
あの瓶や、水差しを、どう描けば、どう筆を動かし、どう絵具をのせればああなるのかとか、そういう問題ではないのだ。
自分が描いているときに、どう描くかとか、何を何で描くかとか、そんな手先ばかり気にするちっぽけさが恥ずかしくなりつつ、
モランディの世界は少しゆらゆらと揺れていて、しずかに揺られて、心地よかった。
白い瓶を描かずに抜いたドローイングとか、かっこよすぎてどうしようかと思った。

個展が終わった自分にごほうびという名目で、買ったものや食べたものはいくつかあるんだけど、
近所の古本屋で本を5冊買った。5冊という数字だとまだ理性が垣間見えますけど。
その中に、以前からその古本屋で狙っていた「近世畸人伝」の現代語訳版があって、先日ひととおり読みました。
畸人といっても今で言う奇行を繰り返す人とは少しちがって、わりと儒者だったり、文人だったり、医者だったりもする。本当に奇行で取り上げられている人もいないことはないが、学問や文化に造詣が深く、自由な思想をもち、そのもとに生きる人、という印象である。知っている人だと円空、大雅と玉瀾夫妻、久隅守景、あたり。まあものの本を読んでいるとときどき引き合いに出される資料なんですね。だから狙っていたんですけどね。
たくさん弟子をとったり教室を開いたりして、豊かな人もいるし、もともと身分の高い人もいるけど、だいたい貧乏。
でもビンボーでも風流に生きたり、思想のもとに仁義や徳や修行に生きたり、というエピソードがわりと多かったように思われる。俗にとらわれず生き、修行したり、本書いたり、歌を詠んだり、詩を作ったり、絵を描いたりする。
その生き方が良いならじゃあ今の時代で可能かっていうとナンセンスな話になってしまうんだけど、江戸時代の京都というのはそういう生き方がしやすく、また実際する人も多いところであったらしい。という訳者の話からこの本は始まっていた。

天然で宇宙を感じちゃう人というのがいる。
という話を思い出したのも、ある人から、蕪村から宇宙を感じるという話を聞き、
私はあまり蕪村から宇宙を感じたことがなかったけれど、精神の深みみたいなものは感じたことがあるんだけど、
話の流れで近世畸人伝を読んでいる話をしたのである。絵を描く、詩や歌を読む、風流や精神に生きる、という生き方そのものの話。

蕪村は天然で宇宙を感じちゃうタイプだと思う。絵や、旅をしたり俳句を詠んだりするありかたや、司馬氏の「天明の絵師」(私はこれと「蘆雪を殺す」が大好きでその話ばっかりしてしまうんだけど)に出てくる蕪村のそぶりを見るに、そう思う。同じ話に出てくる呉春は、そのタイプじゃない。だから悩む。師匠と違う器用で実質的な自分に悩む。それが最後は応挙に出会い、円山四条派にたどり着いて話は終わっているんだけど。応挙もどちらかというと、そのタイプじゃない。でも応挙は蕪村と仲良しだった。

そのタイプじゃない人は、天然で宇宙を感じちゃうタイプにとても憧れる。
なにか感覚が足りないような劣等感もある。でも、自分はこうはなれないのだという諦めもある。天然で宇宙を感じちゃう人は天然物だから。蕪村は感じようとしているのではなく、何かにつけそっちへ行ってしまうのだ。
呉春は蕪村をみて劣等感を感じただろうか。応挙は蕪村に憧れただろうか。
自分は呉春のほうにいるのだとわたしは思った。

宇宙を感じちゃう人の宇宙がまったくわからないわけではないけれど、自分で受信するアンテナは弱い。
強くならないことはないけど、天然で感じちゃうタイプは、そうじゃないタイプの受信力の限界をはるかに超えるアンテナを、生まれながらにもっている。
だから別に、受信力強化をあきらめようって話なんじゃなしに、そこへたどり着けないからって、がっかりしたり、劣等感や虚無を感じたりするのを、やめようと。

天然で宇宙を感じちゃう人たちと、その人たちの宇宙は、刺激と衝撃をくれる。あとたぶん受信力を上げてくれる。
応挙は蕪村とつきあうことで、たくさんの刺激を受けただろうし、それは応挙の絵にとって、とても大事なことだったのだろう。
高い技術で、真面目に繊細な絵を描く応挙に、絵が筆先だけのものではないことを、蕪村がみせたことがあったかもしれない。

なんだけど、なんでもかんでも天才という言葉ですませるのが、以前からいやで、それは思考の停止になる。
この人は天然タイプだから、となんでもそれで済ませ、それ以上は考えないということが、往々にしてある。
天然で宇宙を感じちゃうタイプも、やっぱり人で、さまざまな人がいるし、さまざまなことがある。たくさんの経験や成功や失敗もしている。
それをすっとばして、一言でまとめてしまうことに、以前から違和感を禁じ得ない、と思っているのです。

それで蕪村の話の流れで、一茶の名前が出てきて、
あ、一茶すごく気になってるんです、と言っておいて、
家に帰ってきたら、本棚におらが春があった。買ってた。岩波の。そして積んでいた。
なので今少しずつ読んでいます。というのが現在です。

てめえいったい何が言いてえんだよ、と思われるでしょうが、てめえも何を言いてえのかよくわからないままです。すみません。
そんな風につれづれ思ったことを、ツイッターにこぼして済まさずに、ブログに書けばいいのかもしんない。

古本屋でほかに買ったのは、日本の服装の歴史についての文庫本と、南総里見八犬伝のダイジェストと、赤穂浪士の絵本と、広重絵日記でした。広重、甲州日記じゃなかったけど。
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