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15/08/30 その1

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気がつけばもう8月も終わりで、夏なんか、すっかり終わりの気配です。
ブログの更新のたびに言い訳ではじめるのも見苦しいので、さっさと本題に移ります。

前回の更新の東博からこっち、美術館や博物館に長いこと行っていませんでした。
ちょっと危機感なくらいです。ギャラリー巡りはちょいちょいしていたんですけど。
そのせいで、美術館の空気感とか、絵と向き合うこととか、ましてや感想ノートの描き方だとか(おぼつかない…)、忘れていたのはそればっかりじゃなくて、
身体全体の大きなスケールで、絵だけではないいろんなものを感じたり、考えたりすることをも忘れていたようです。

それで本題は何かっていうと、原美術館でサイ・トゥオンブリーをみた話です。
トゥオンブリーの絵と向き合って、最初は感覚を取り戻せずソワソワするも、
だんだんと目だけではなくて、肩や腕のまわりや、頭の後ろや、膝や爪先まで、絵を受け止める感覚が戻って、
それから脳や内蔵のほうまで浸透して、って別に絵をみながらいちいちこんな細かく認識しているわけじゃなくて、いま思い出して書いているだけなので、オーバーな部分もあるのかもしれませんが。
このところ家にこもって制作しているばかりのことが多くて、家っつってもわたしはひとりぐらしなのでまあそれ相応の広さのものであって、知らず知らずのうちに、手元に収まる感覚ばかりに収縮してしまっていたようです。

その身体全体の感覚というのが、もちろん絵が物理的に大きければ感じやすいのだけれど、
絵が小さくても、トゥオンブリ—の線や色や、その隙間の余白が、静かに広がって包んでくれるような心もちがして、とても心地よかったです。
線や色、ペンキの層に隠れた要素、飛びまわる鉛筆やクレヨンの線、即興的に見えていても、それが画面の中でひとつになって、「完成」に至ったと満足できるまでの道のりは険しい。なんと難しいことか。シンプルなものや即興的なものに対する世間一般との価値基準の差が、悲しくも露見してしまいがちな昨今で、そんなことを思う。

トゥオンブリーの線も色も形も、もちろん気持ちいいが、余白の気持ちよさに気がつく。描かれていないところ。地と図でいうところの地。
話はすっ飛ぶけれども等伯の最新発見作(5月頃の話ね)を図版でみていて、等伯は空間を描く人なんじゃないかと思いはじめた。あの竹林の絵をみていてである。あれは竹を描いているのじゃなく竹の並び立つ空間を描いているんじゃないか。松林図にしたって松ではなく松と松の間をたゆたう空気を描いている。とはいえこの感覚は等伯の、水墨画にしかあてはまらないんですけど。
それでトゥオンブリ—に戻ると、彼の絵をみたときも、線や色のある、その空間が気持ちよいと思った。風とおしがよくて、心地よいその空間から、画面の外にまで絵の感覚が広がって、こちらに届いているように思った。絵の中の余白、空間が、絵の外の世界と絵の中の感覚とをつないでいるように思えたのです。
思えば余白というものは、まだ何も起きていない空間、無限の、これから何が起きるかわからない空間であって、それでいてひとつの世界として確立していて、そういう意味で、絵の外の世界と似た者同士で、つながりやすく広がりやすいのかしら、などと思うわけです。
光琳や宗達をみたときから言っている「浴びる」という感覚とも通じるものがあるかもしれない。そう思うと、群馬での東洋美術とトゥオンブリーとの共演の展覧会が、やけに気になってくる。

解説は、チケットを買うときにもらう目録の文章だけ。でも絵が語ってくれる。時代の変遷も、全体をとおしてみればなんとなく感づいてくる。日本の他の展覧会ってひょっとしたら喋りすぎなのかも?などとうっすら思う。

取り戻した感覚を、今度は忘れないようにしようと思います。
ひとまず了。
次は暁斎展の話です。
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