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14/09/18

“絵の目的”と個展の片付けと東博で考えたこと。
投稿してから恥ずかしくなって消したくなりそうなことを書いてみます。


「あなたの絵を描く目的はなに?」
と、訊かれました。個展のときに一度。
とっさに言葉が出なくてお茶を濁してしまったが、個展がおわってぼーっと考えていると、ときどき頭にぽっとこの質問がよぎる。
イラストレーションの仕事がしたい、というのはちょっと違うと思う。
むしろ逆だと思う。順番が。
イラストの仕事がしたいから絵を描くんでなしに、絵を描くからイラストの仕事がしたいんだと思う。

大学の1年や2年の頃には、けっこうそのあたりを難しく考えていた。
自分の個性、自分の絵の特徴、自分の絵の目的、云々、すべて訊かれたときの答えを用意しておかなければいけないと思っていた。
だから不完全ながらそれらしい答えを言葉で用意していた。
でも肝心の絵は下手だったし、描きかけのまま続かないことがすごく多かった。
個展の作品を片付けていたら、押し入れから描きかけのキャンバスやパネルがたくさん出てきて、そのことを思い出した。
キャンバスやアクリル絵具の重さが、自分にとって重すぎたというのもあっただろうけど。

で、今、難しいことの答えは用意しなくなってしまった。とっさに答えが出ず、お茶を濁すようになった。あんなに考えて用意しておいた言葉も吹き飛んでしまった。でも、絵は描けている。
その絵に、自分でその時なりの満足もしつつ、その時なりの完成もさせつつ、次の目標を小さくても見つけてつづけている。

答えが本当に見つかったら終わってしまうんじゃないかと、このところは思う。
だってそうしたら、もう探すものがなくなってしまうみたいだから。



9/15の敬老の日、東京国立博物館の常設が無料だというので、急遽行ってきた。
日本の美術に惹かれるようになってから、自然と東博が大好きになった。個展が終わったら一度また常設を観に行きたいと思ってた。ので、いい機会だと思って行ってみた。
入り口でチケット切ってるお兄さんに、「すみません、総合文化展だけなんですけど」と言ったら、スーと通してくれた。カンゲキ。

全部見きることはできなかったけど、
法隆寺宝物館の仏像や仏具、考古展示室の土偶や土器や埴輪、本館日本ギャラリーの絵巻や仏画や禅画、大好きな江戸時代の屏風や掛軸、浮世絵、その他工芸品や着物や刀剣、とにかくたくさんみた。

法隆寺宝物館で、仏像に囲まれながら思ったのだけど、
正直、仏像の何が好きで観に行ってるのか、自分でもよくわかってない。
よくわかってないんだけど、なんか気になるから観に行ってしまう。
で、頭や光背に小さい仏さんがいっぱいついてるのとか、ちょっとフシギな体型やポーズをしてるのとか、派手なアクセサリーを細かく作ってるのとか布の流れとか、観て、ときどき「ドキッ」としてしまう。
たぶん中学の修学旅行で、東大寺の金剛力士像の大迫力のやつ、興福寺の千手観音の手のいっぱいあるやつ、三十三間堂のずらっと並んでるやつとか見たときも、「ドキッ」としていた。
あの「ドキッ」のことを思い返すと、なんとなく行ってしまうらしい。

土偶や土器や埴輪も、昔やけに弥生時代や卑弥呼に惹かれたあたりから好きだけど、
どうして弥生時代や卑弥呼に惹かれたのか、うまく説明できない。
土偶や埴輪も「かわいい」以上の言葉は出ないし、土器も「おもしろい」ぐらいだし、勾玉とかも好きだけど何がいいのか…
でも「ドキッ」とするんです。ときどきツボにはまってしまう。

楽しみにしてて、もっとゆっくり見たかった江戸時代の掛軸と屏風では、
岸駒の虎と波の屏風がふるえるようなエネルギーで、とてもよかった。
呉春の山水の屏風も壮観でよかったし。
蕭白や芦雪もあって、私が知ってるのより少し大人しめだったけど、よかった。

江戸時代の絵にはまったのは、色々理由があるけれど、
やっぱり一番は、「絵を見ること、描くことの一番シンプルな喜びに戻れる」からだった。

東博をぐるぐる廻って、あまり難しいことは考えなかった。考えないようにしてた、というのもあるけど。
色や形を自分の作品に取り入れようとか、あまり思わずにのんびりみて、ドキッとするものがあると立ち止まって見つめた。
考古の装身具とか馬具とか、べつに形や色が重要でもないものの中に、
やけに目にとまる形や色や大きさのものがあって、そういうのを見つけて立ち止まるのが楽しかった。

土偶や土器に細かな飾りをつけたり、勾玉やアクセサリーで自分自身を飾りつけたりするときの気持ち。
埴輪や仏像を心を込めてつくりあげるときの気持ち。
岸駒が屏風に向かって墨を、筆をおき、一気呵成に(かどうかはわかりませんが)虎と波を描きあげる、
蕭白が仙人を、その背景の岩や苔、着物の墨色を、のびのびと描きあげる、そのときの気持ち。
宗教心とか信仰心とか、絵師なら自尊心とか、色々あるとは思うんだけど、
根っこの方には、やっぱり「絵を描く、ものを作ることの一番シンプルな喜び」があるんじゃないかと、思う。
そういうところに戻りたい、忘れたくない、ということは、いつもぼんやりと思っている。
あんまり難しいことばかり考えずに、絵を楽しむ気持ち。
とはいえ自分みたいな未熟者は、もっとちゃんと考えた方がいいんだろうけど。

ちなみに補足すると、西洋美術じゃそれを感じられないってんじゃありませんよ。
西洋にもあるよ。
ただ自分個人の感覚に近いところが、自分のツボが、たまたま日本のものに多かった、というだけのことであります。


こんなような話、前にもしてるかもしれないなあ。
原初的な喜びがどうの、とか、ときどき言ってる気がするし。
してたらごめんなさい。
お前の記事、同じことばっかりだしやたら長いし退屈なんだよ、とでもお叱りください…
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