18/12/31 大つごもり


更新しといてなんですが、ちょっとこんな状況ですので、
2018年をふりかえるのは来年にします…
テレビもみられないので、ツイッターのタイムラインをみて紅白の雰囲気を感じてます

今年も一年ありがとうございました。
みなさまよいお年をお迎えください。
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18/12/27 D.H.D.D.H.(デュシャンの話ではないデュシャン展の話)


12月のはじめ、東博で特別展をみて、その日に書いたノートからなのですが、
久しぶりに読み返したら、思ったよりヒネたことを書いていて、今ちょっと頭をひねっています。


東博でデュシャン展をみた。
宗達の龍の絵がよかった。

などと書くと、文脈が全くつながっていないけれども、実際のところなのです。
そもそもが何故東博でデュシャンなのかというと、デュシャンのやっていたことと日本美術のやっていたことを関連づけるというのが今回の展覧会のテーマだったからなのでして、私はそのことをテレビでY田G郎さんが話していたから知ったのだけど。

デュシャンの考えたことや実際したことやなんかは、改めておもしろいし、凄いし、言葉の感覚なんかも含めてひっくるめてめちゃくちゃ頭のいい人だなあと感服した。
これを日本美術と関連づけるというねらいは、刺激的だし、おもしろい試みであると思う。そもそも東博にデュシャンをもってくることが、おっ、と思う。

でも、デュシャンの作品の合間に、日本美術をねじ込んで関連づける、という構成でもよかったのではないかしらん。と思わないこともなかったのだった。
展示のつくりは、最初から3/4くらいまでずっとデュシャンで、日本美術は一番最後の部屋ひとつにまとめてあった。
流れとしては自然で切り替えもしやすく、見やすいのだろうけど、日本美術の、それぞれの作品がどうデュシャンと関わるのか、振り返ってまた説明しなければならないし、どうしても体感に時差がでてしまう。
まあ実際、交えて展示をしようとすると、展示方法とか作品保管の条件とか、いろいろ制約もあるんだろうし、厳しいのかもしれないけど。

日本の古美術と、デュシャンのモダンアートと、こんなところが同じですよ!しかも日本の方が早いんですよ!
わかる。わかった。それはもうわかった。
日本美術のこういうところがすごいんですよ!というのを、他者と比較して説明し実感させることは、理論的にも、価値づけとしても、興味ない人たちのとっかかりとしても、重要なんだろう。事実、わたしもそういう文脈に胸躍ることもある。

しかしまあ、日本美術は日本美術であって、他者との背比べはおいといて、
日本の絵って、いいよね、うん、いいね、みたいな気分でみられる穏やかさもいいよなあ、というのは、ちょっと私が呑気すぎるんでしょうか。
そもそもが日本美術にしろ、西洋美術にしろ、モダンアートにしろ古代の美術にしろ明治以後の日本画にしろ、そんな話は縄文のシンポジウムでもありましたけど、他者との比較がまったくできないわけではないけど、みな文脈がそれぞれちがう。

とりあえずわたしは、最後の展示室にあった宗達の龍図をみて、「ああ、いいなあ」と思い、そんなことを考えた。
もう、この「ああ、いいなあ」で、わたしは満足してしまったのだろう。
しかし「ああ、いいなあ」というテンションでつくる展覧会というのはあまりに大人しすぎて、振り向いてもらえなかったり、喜んでもらえなかったりするのかしらん。わかる時が来ないとわからないって日本美術応援団でも言われてたものなあ。


同じ日に快慶定慶もみて、こちらは普段どおりに仏像のみごたえを楽しんだ。
撮影可の聖観音の前で、一緒に自撮りをしている人が二人くらいいて、その様子を向かいの地蔵菩薩が静かに眺めているのが、やけに意味深に思われたのだった。
それから常設にでていた、久隅守景の鷹狩図の屏風がよかった。このひとはやっぱり俗っぽさとか、普段の生活やふつうの人々のたのしみやくらしの実感を描くのがうまくて、うれしかった。


見事にデュシャンの話じゃなくなっている。
でも、デュシャンにしろ日本美術にしろ、コンセプチュアルなおもしろさを否定するものでは決してないです。ヒネたこと書いて、言い訳がましいかもしれませんが。

年内をこの文章で〆るのは不安だな。最後のつもりだったけど。困ったな…

18/12/25 絵本展、ありがとうございました

絵本展web13
「坪田譲治 にっぽんむかしばなし絵本展」
12/23に終了いたしました。

師走の慌ただしいなか、お運びくださったみなさま、
絵本をお手にとってご覧くださったり、ギャラリーでお話ししてくださったりしたみなさま、
絵本をご購入くださったみなさま、
参加のお声かけをくださり、今回のディレクションをご担当くださった中島慶章さん、
企画と会場のGALERIE Malleさん、
「姉と弟」装丁をご担当くださったデザイナーの菊池千賀子さん、
参加作家とデザイナーのみなみなさま、ありがとうございました。

展覧会に向けた絵本の制作を通して、学ぶことがたくさんありました。
お声かけをいただいた春頃から、今回の絵本と展示とのことを、
頭の真ん中に置いたり片隅に一度置いたりまた真ん中に戻したりしながら、ずっとどこかしらで考えておりましたので、
いろいろ大変なこともありましたが無事に終了を迎え安堵するとともに、
どことなく寂しいような心持ちがいたします。

参加作家としては力不足な部分もありましたが、この機会をいただけて幸いでした。
この場ではありますが、改めて感謝を申し上げます。


そして、自分の担当した絵本の話を少しいたします。
(この先は長くなりますので例によって飛ばしてください)

絵本展web9_s
「坪田譲治 日本むかしばなし集」より、
「姉と弟」というお話を選び、絵を描きました。

それほどポピュラーなお話ではなく、
私もこの展覧会でどのお話を描くのか、その希望をとるために上記全集を読んで、初めて知ったお話です。
なぜ描きたいと思ったのか、思い返すに、
人物や登場するモチーフに、絵にしてみたいという魅力があったこと、
物語がとてもやさしく、フラットで、安心するお話だということがあげられるかと思います。

「日本むかしばなし集」を読んで、
「めでたし、めでたし」ってなんなのか、ふと考えてしまいました。
意地悪爺さんがコテンパンにやられたり、お金持ちや土地持ちになったり、だれかが傷ついたり何かを得たり失くしたりということが、
ここでは全部「めでたし、めでたし」でまとめられているけれども、果たして本当に「めでたし、めでたし」なのだろうか。
そういうことを考えたときに、「姉と弟」は素直に「よかった」と安心できる結末だと、私は思いましたので、
(と、言いつつ、読みようによっては謎の想像力もはたらくお話でありますが)
おそらく私の納得をいちばんの決め手として、選びました。そして無事に希望が通りました。
本当は、そういう地味で安らかで穏やかな幸せにたどりつくことが、現実世界では、いちばん難しいのかもしれませんが。

「日本むかしばなし集」の坪田譲治さんの文章はとてもやさしくて、子どもたちに語りかけられていて、
その穏やかさに少しでも添いたいと思いながら、できるだけ素直に、描きすすめていきました。
オールカラーの15見開きが大変なことはわかっていたけど体験したら思った以上に大変だった。腱鞘炎一歩手前。いや、片足突っ込んでた。


絵本の制作も初めてでしたが、
日本のむかしばなしのモチーフを、趣味の範疇を超えて描くのも、今回が初めてでした。
細かいところは突っ込む人には突っ込まれるでしょうが、描く方は楽しかったです。
趣味で集めた図録や本がようやく役に立ちました。うれしい。
こういうモチーフもっと描きたいです。
web4.jpg web5.jpg
(扇面大好き人間)


古民家の画像も集めたり、本を読んだり、近所の民家園に行って写真を撮ったりしましたが、
みるたびふれるたび、先祖の血が安心している感じが最高に幸せでした。最高。



そしてこの、カバーですが、
最初に私が出したラフはもっとストレートで、それこそ姉と弟の人物を配していたのですが、
デザイナーの菊池さんから、もっと象徴的な感じはどうでしょうか?というアドバイスと、梅に鶯や流水紋を配したイメージをいただいて、
目からウロコがポロリと落ち、
じゃあどうしようと頭をひねって、浮かんだのが、この、梅と松の木の絵です。
最終的に仕上がったこのふたつの木と、流水紋と、花鳥のカバーの絵が、
私はとても気に入っております。
今回の絵本の装丁では、ややもするとぼんやりと弱くなってしまう絵に、強さや芯を与えていただけたと、しみじみ思っております。ありがとうございました。


ちょっと、しゃべりすぎました。
私なりに、いろいろ試しながら、良いものをつくり、仕上げていただいたと思っておりまして、
展覧会が終わり、実物をご覧いただける次の機会が不明瞭な今、
ちょっとこの場を借りて、語らせていただきたい気持ちがしたのです。恐縮です。
作家はどこまで作品のことを語るのがいいのでしょう。むずかしい問題ですね。



展覧会では、10冊の絵本が本当にそれぞれの魅力をもっていて、
作家さんともお話しながら、たくさんの刺激を受けました。
展覧会そのものが久しぶりでしたが、ほんとうに、良い時間をすごせました。


さて次回、2月にカフェギャラリーで個展を予定しております。
またいろいろ決まりましたら、お知らせいたします!
自信をもってお知らせができるように、いろいろをちゃんと進めないといけませんね。


良いお年を、と言いたいところですが、ここも年末までにあと1回くらい更新したいです。
デュシャンと宗達の話も書いておきたいしなあ。と、発言しておけば書くんじゃないかなあ。

18/12/7 グループ展のおしらせ

恒例の更新ぶっとばし魔、長田です。
グループ展のお知らせをさせてください!


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☆「坪田譲治 にっぽんむかしばなし 絵本展」
会場/GALERIE Malle(恵比寿)
会期/2018年12月11日(火)~12月23日(日) ※12月17日(月)休廊
12:00~19:00(最終日は16:00まで)
詳細/ https://galeriemalle.jp/archives/6861

児童文学作家・坪田譲治氏の「日本むかしばなし集」より10編、
10組のイラストレーター+デザイナーが制作した絵本と、その原画の展覧会です。

私は「姉と弟」というお話を描き、
デザイナーの菊池千賀子さんに装丁を仕上げていただきました。
ご存知ない方が多いお話かと思います。私も、坪田氏の「日本むかしばなし集」を読むまで知りませんでした。
弟を、お姉さんが助けてくれるお話なのですが、登場するモチーフや、
「よかったなあ」としっくりくるラストが気に入っております。
ぜひぜひ会場で読んでみてくださいませ。

少し久しぶりのグループ展参加です。少々緊張しております。
絵本そのものが初めての経験でしたので、どんなふうにご覧いただけるか気になります。
時間の詳細は未定ですが、初日の12/11火曜日と、
会期中の土曜日、日曜日には在廊するつもりでおります。



本日、原画を額装したのをチラ見せ。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

18/7/4 感じなくなりたくない話


7月がきてしまった。ほぼ月一更新ブログですみません。
橋口五葉の話を書こうと思っていたんですが、ちがう話です。


突然ですが、都会では脳を麻痺させなければ生きられないとおもっている。
万人に当てはまるわけではなくて、都会のほうが生き生きとしていられるひとも居るけれど、自分がそれになることはとうに諦め、なるべく鈍感に、物事を深く感じすぎぬようにして生きている、という自覚がある。その場しのぎの方法でしかないから、遠からずなんとかせねばとは思うのだけど、このさき永く生き延びられる方法が、いま近くには見つかりそうにない。

たまに麻酔が切れる。駅や街の人混みが、喧騒が、あらゆるきらきらしたものが重くのしかかってくる。
フィリップ・ワイズベッカー展をCLASKAにみに行ったときが、はからずもそういう日であった。正直こういう日は絵をみるのには向かない。ひとりで歩いているとそれだけで重々しい心持ちになるので絵に集中できない。そういう心持ちでみることになってしまう絵に対して、とてもとても申し訳ない気持ちになってますます悲しい。
駅にびびり、街並みにびびり、重苦しいことで脳をいっぱいにしながら辿りついたCLASKAに一番びびった。すごくきらきらしたところである。でもここで引き返したら何をしに出てきたのかわからぬから入った。

CLASKAのギャラリーは想像以上に広くて、白いきれいな空間で、お洒落なショップもあった。そのなかにワイズベッカーさんの絵が、ぽんぽんぽんと浮かんでいた。しかし頭がまだ重いわたしには、その浮かんだ形と線が、すごく遠くに思える。しばらくその状態がつづいた。

すこし変わったのは小さなチョコレートの絵の前だった。ふしぎなかたちの小さな絵が、ぽつんぽつんと並んでいた。おや、と思ってキャプションを覗くと、CHOCORATEという文字がある。そうして改めてみると確かに、四角い箱の四角い仕切りの中にぽつんぽつんとひとつずつ入っている、あのチョコレートの形なのである。
そのぽつんぽつんと入ったひとつひとつの形へのいとおしさが、ふと近しく感ぜられた。小さきものはみなうつくし、と思った。清少納言。

それから飛行機の絵の前に立っていたとき、ふと、手の上を小さな蜘蛛が歩いているのに気がついた。
いつから私の身にくっついていたのか、家の近くでバスに乗る前か、そのあと電車に乗る前か、はたまた駅からギャラリーへ歩く道中か、実はギャラリーにずっといたのか。それはわからないけれど、少なくともある程度の距離をわたしが運んでしまったことは確かであり、この小さきものはそれに抗うことができない。人間が歩いて運んでしまうこともあれば、電車や車、もしかしたら飛行機に乗ってしまうことだってあるだろう。そうして勝手に、時に不自然な方法で遠くまで運んでしまうことに対して、その先で起こることに対して、人間は責任をもてない。責任をもてないまま、自動車に乗り、電車に乗り、飛行機に乗る世の中で生きている。まったく不自然だけども戻ることもできないものなあ、などと思いながら、空調の効いた室内に蜘蛛を放した。

置かれていた画集をぱらぱらとみていると、ワイズベッカーさんの絵の心地よいフォルム、線、かたちへのいとおしさが、少しずつじわじわと、重い頭に沁みこんできた。しばらくして見ると蜘蛛はいなくなっていた。あいつらは結構すばしこくて、人間が思っているよりずっとタフでしたたかなんだ、たぶん。

久しぶりに、ものすごくゆっくり、じっくりと展覧会をみた。自分のからだで吸収し、咀嚼し、味がわかるまでみた。
絵をみる機会が少なかった頃は、いつもそうやってみていたのに、何かと機会が増えると義務感とか、みたという事実のためにみにゆくとか、そういう風になってしまうことが、認めたくはないけれども有ったのだ。殊に出がけに麻酔が切れ、頭と身体が重くなれば尚更のことで、それこそ絵に対して甚だ無礼なことである。不誠実。

道具のかたち、乗り物のかたち、建物のかたち、かたどる線の一本一本、色鉛筆で塗るタッチ、無機質なようでいて宿るぬくもり、少しずつ、ひとつひとつ、心地よさを感じることができた。
そしてギャラリーに入ったときは、正直このまま帰ろうとすら思う状態であったが、ちょっと元気が出て、ワイズベッカー展をみたあとも、少し各所をまわることができた。

それは麻酔を打ちなおしたのではなく、何か別のものを、注射とか、点滴とか、して貰ったような感覚であったと思う。栄養なのか、薬なのか、身体に必要な成分なのか、最近のわたしにはそれが不足していたのか。
それがワイズベッカー展でなければ得られなかったのかはわからないのだけど、ワイズベッカー展でよかったんじゃないかなあ、とも思う。
もしかしたらより大事であったのは、じっくりと吸収し、咀嚼し、味をしっかり感じながら絵をみるという、経験そのものであったのかもしれない。もしかしたら薬でもなんでもなくて、ただ普通に味わってごはんを食べたというくらいのことであったのかもしれない。でもそんな普通で、あたりまえのことでも、時として人は感じなくなってしまうのだろうか。

感じなくなりたくないなあ、と思いながら、自戒のように書き留めておきます。
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